ボローニャ 〜 '98W杯
7月18日 |
バッジョのボローニャへの移籍が発表される |
移籍金55億リラ・年棒30億リラ プロヴィンチアという伝統こそあるが地方の一クラブに移籍したバッジョ。 マスミコミは「セリエAの1つの時代が終わった」と報道する しかしバッジョは、自らが人生の師匠と仰ぐ 池田大作SGI会長有縁の地・ボローニャ ( '94W杯前にイタリアを訪れた池田SGI会長は ポローニャ大学で講演をしている ) でフランスW杯へ向けての闘いを開始した |
バッジョ「大きな喜びとともにボローニャを選んだつもりさ 選ぶ上で他の考慮すべき 面もあったが難しい選択じゃなかった フランスW杯まで1年を残し最終的には正しい選択だったと思うよ アズーリに選ばれるにはやっぱりイタリアでプレーするのが 有利だからね だから今は早くボローニャに適応するように努めるだけさ これまで"バッジョの選手生活は終わった" なんて多くの人が言っていたけど絶対に見返してやりたい」 とコメントする ボローニャは、バッジョの加入により チーム新記録の27.000の年間予約席を売り上げる |
8月17日 |
バッジョのトレード・マークだったコンディーノ(ポニーテール)を ボローニャの合宿中にチームメイトのトッリージに切ってもらう |
9月7日 |
'97-'98シーズン 第1節 アタランタVSボローニャ戦
( 4-2 ) で90分にPKを決め、初戦でボローニャ初ゴールをあげる |
9月14日 |
第2節 ホームのレナト・ダッラーラでのボローニャVSインテル戦
( 2-4 ) ロナウドと初対決バッジョはFKとPKを決め2得点 ロナウドはセリエA初ゴールをあげる |
11月5日 |
第7節 ボローニャVSナポリ戦で ハット・トリック達成 5回目 48分にPK・90分ゴール・95分PK |
12月21日 |
対 A.Cミラン戦でスタメンを外される |
1998年1月11日 |
アウェーでのエンポリ戦 ( 0-0 ) でセリエA 300試合出場達成 |
1月18日 |
ホームでのユヴェントス戦 ミランに続き強豪相手にウリヴィエリ監督は前日に バッジョにスタメンを外したことを伝える バッジョは当日ベンチ入りせず帰宅、監督と対立するも オリアーリ・ゼネラルマネージャーの説得で両者和解する |
H13年5月26日・追加 ユヴェントス騒動についての、バッジョのコメント 「チ―ム・メイトや監督に私が迷惑を掛けているというイメ―ジが固定化 されてしまっている。 だから、誤解がしょうじ、問題が生まれる」 「私に嫉妬する人や、同じチ―ムなのに私を敵と見なす人とは どうしても衝突してしまう。 これは、私がサッカ―を続ける限りついて まわる問題」 「私は、ゲ―ムでプレ―してフランスW杯に出場したかった」 「ウリヴィエリは、バッジョがボロ―ニャに来たら セリエB 落ちだと語った」 「彼は、私がプレ―し活躍する事で自分が長年かけて築き上げたものが 霞む気がしていたと思う。 実際そうなってしまったが・・・・・・。 私には、どうする事も出来ない事です」 「でも、時々何らかの形で迷惑をかけているのかな ?? と思います」 「ウリヴィエリ監督との関係は、時がたつにつれて 悪化していきました」 |
1998年4月26日 - 31歳 |
第31節 ブレシアVSボローニャ戦で イタリア代表監督チェザーレ・マルディーニの前で 2ゴールを決めフランスへ向けてアピールする |
5月10日 |
第32節 ユヴェントスVSボローニャ戦 ユヴェントスが優勝を決め共に代表のFWの座を 争っているフィリッポ・インザーギがハットトリックを決めるなかで バッジョも1得点をあげ再びアピールする |
5月17日 |
第34節 ボローニャVSラッツィオ戦で2ゴールをあげ 自身最多の22ゴールをマークする |
また、デルピエーロを抑えてイタリア人最多得点を記録する セリエAでもビアホフ・ロナウド・についで3位となる 2001年8月15日追加 バッジョ 「ボロ―ニャでの1年は、毎日がチャレンジでした コンディション作り、ゲ―ムに出てリズムをつかむ、ゴ―ルを決める いいプレ―をする、そしてW杯へのチャレンジ 苦闘の連続ではあったが、1年間目標を追い求めた結果 達成することが出来た」 |
5月18日 |
アレッサンドロ・デルピエーロの控えということで代表入りが内定する |
5月21日 |
1998フランスWorld Cup イタリア代表に正式に選出される |
イタリア代表のキャプテン - パオロ・マルディーニはあるインタヴューで 「もし、あなたが生まれ変わるとしたら誰に生まれたいですか??」 との質問に 「バッジョです、人間として素晴らしいからです」と答えた |
6月2日 |
親善試合のスウェーデンVSイタリア戦で10番をつけてプレーする |
6月5日 |
インテルへの移籍を発表する |
ボローニャでのシーズン終了がせまる頃バッジョは「イタリア代表に選ばれたら 来シーズンもボローニャに残りたい しかし、選ばれなければ国外でプレーすることもありうる」とコメントしていた バッジョは再びチャンピオンズ・リーグ制覇への夢をかけて インテルへの移籍を決断する |
World Cup出発直前のインタヴューで 「今度は前回とは気持ちが違います 最後まで戦い抜いて勝利し何が起ころうとも 出きることはすべてやりきるということを目標にしています 一番大事なことは最後に"よし、出きることはすべてやりきった"と 言えるところまで到達することです」 と答える |
6月11日 |
イタリア人・初のWorld Cup 3大会連続ゴールの記録樹立 |
1998 フランスWorld Cup グループ・リーグ第1戦 イタリアvsチリ
( 2-2 ) バッジョはデルピエーロ負傷のため18番をつけて 先発出場10分のヴィエリのゴールを絶妙なピンポイント・パスでアシストする がその後チリのサラスに2ゴールを決められ 逆転される しかし、85分に自ら得たPKを決め同点としイタリアを再びすくう |
PKを決めた事について、「あの瞬間『外す』か『決める』かが頭をよぎりました 私の一念は『決める』というほうにありました 決めた時の歓喜ははかりしれないものでした アメリカ大会の決勝でPKに臨んだ時の気持ちはとてもネガティブなもの でしたが、このPKを蹴る時の気持ちは確かにポジティブでした W杯でのイタリア・チームの冒険を続ける希望を感じました」と述べ 「私は、今年ボローニャでPKを12回蹴って全部決めていましたから チーム・メイトに安心感を与えたいと思い その責任を引き受けたのです」 とコメントする |
6月17日 |
グループ・リーグ 第2戦 イタリアVSカメルーン
( 3-0 ) 先発出場しコーナー・キックからディビィアッジョのゴールをアシストする 65分にデルピエーロと交代する |
6月23日 |
パオロ・ロッシと並ぶ、イタリア人最高のW杯通算得点記録を9とする |
グループ・リーグ 第3戦 イタリアVSオーストリア
( 2-1 ) デルピエーロ先発出場のため、ベンチ・スタート デルピエーロのアシストによるヴィエリのゴールが決まったものの 追加点が入らず、観衆のバッジョ・コールの中 後半27分にデルピエーロに変わって出場 89分にフィリッポ・インザーキとの華麗なコンビプレーで ゴールを決め、決勝トーナメント進出を決める |
6月27日 |
決勝トーナメント 1回戦 イタリアVSノルウェー
( 1-0 ) ヴィエリのゴールで勝利 バッジョは出場せず変わりに、エンリコ・キエーザが投入される |
7月3日 |
準々決勝 フランスVSイタリア ( 0-0 ・ PK4-3
) 0−0で進む緊迫した試合展開の中 67分にデルピエーロに変わって出場 延長戦で、1度決定的なチャンスがあったが決められずPK戦へ バッジョはイタリアの1番手としてゴールを決めるが アルベルティーニと、ディビアッジョが外して3大会連続で PK戦による敗退となる 8月15日追加 この1年間、W杯も含めて肉体的にも、精神的にも 体調は良かった 個人的には、「いい大会」だった PK を外したディビアッジョに慰めの言葉を言ったが 本当のところでは、意味がないともいえる 私自信も'94年の時そうだったが、いくら慰めの言葉を 言われても、W杯の決勝でPKを外したショックは大きい その後は、自分自身で克服するしかない」 |
フランスW杯後のインタヴュー Q「.フランス戦について」 バッジョ 「この試合では前半はフランスがボールを独占しようとして彼らが支配して いました。 フランスがイタリアのゴール・ゾーンに来ることはほとんど ありませんでしたが、我々はセンターで少し苦戦しました 後半は我々が攻勢を強めて勝とうと努力しましたが果たせませんでした もし、私がゴールを狙った時にうまく打ち込まずにもう少し 下手に蹴っていれば、おそらく入っていたでしょう 結局PK戦で負けてしまいました しかし我々は全力を尽くしたので悔いはありません 他の闘いをしていれば違う結果になったかもしれませんが サッカーというのはこういうものなのです」 Q「.チーム・メイトとプレーについて」 バッジョ 「我々の誰もがプレーしたいとしても 今大会で1度も試合に出なかった選手達もいます ベンチで試合の感動を彼らとともに分かち合うことは彼らの心の 近くにいてあげられるわけで、それもまた素晴らしいことです」 Q.「ディビアッジョが最後にPKを外したとき 真っ先に駆けつけ抱きかかえるシーンが印象的でした あの時はどのように励ましたのですか??」 バッジョ 「アメリカW杯でのPKの失敗が長い間自分の心に 残したものを知っていますから彼の気持ちが分ります この4年間いつもあのPKの失敗が頭から離れませんでした W杯の優勝を手に入れるはずだったPKで私はバレージ・マッサーロと ともに失敗してブラジルが勝ちました だからディビアッジョはアルベルティーニもそうですが あのときの私と同じ気持ちだったでしょう だからあのときに、すぐに彼を励まそう そして「時間がこの気持ちを克服するのを助けてくれるし サッカーには成功があるように失敗もあるのだ」ということを 彼に伝えたかったのです PKを蹴るときには決めるか失敗するかという 二つの可能性しかありません だから「PKで負けても試合自体で負けたわけではないのだから そんなに苦しむのはよそう」と言ったんです Q「.デルピエーロ選手との関係について」 バッジョ 「サッカーの世界では、なんらかの意味でライバルというより 適役になることが宿命づけられている人間がいます アレッサンドロ・デルピエーロと私は共通したものを 多く持っているのです。 ユヴェントスでは 何度か一緒にプレーすることができましたが 今回のW杯では一緒にプレーできませんでした 今回一緒にプレーしたらどうなっていたか、誰がわかるでしょうか 彼はとてもいい青年です 重要ないい資質を持っており、それなくして、彼がいまいる ところに到達できたはずがありません 私達の間には互いへの敬意があります 同じ地方の出身だし非常な尊敬があるのです 冗談も言い合います 新聞が書いているような対抗意識はありませんでした それは現実ではなくてむしろジャーナリズムの産物というべきです 私達は決してこういう問題のなかには生きていないのです Q.「前回のアメリカ大会から、その後の4年間について」 バッジョ 「この4年間成績が振るわずチームの移籍などもありました そのなかでサッカーの世界では 批判される時期も賞賛される次期もることを学びました さらに、まったく考慮すらされない時期もあり 人々はみな自分のことを終わった人間だとすら見なしてしまう 大事なのは自分の持っている資質への信頼を失わないこと 自分の可能性を確信することです ユヴェントスからミランへそしてボローニャへと チームを移籍することで、私は自分の価値をあらわそうとしました いつもそれができたわけではありません そうするには試合に出る必要があり、A.Cミランの時期に は数限りない理由により少ししか試合に出場していないからです ボローニャは私の代表復帰を助けてくれました 私はボローニャに大変感謝しています しかしミランにも感謝しています。 なぜならあの時期に人間として その他の面で自分を確かめることができたからです 前には理解できなかった多くのことが 今ではよくわかるようになりました。 だから両方に恩を感じています Q.「3大会出場したW杯への思い '90年イタリアW杯での初出場までの道のりについて」」 バッジョ 「私にとって初めてのW杯でしたから いまでも鮮明に記憶に残っています 代表出場は同僚たちにとっても同様に、私にとって常に闘いでした とにかく国の代表になるということは・・・・・・・・・ 言葉では言い表せません 大きな期待を受けて若かった私は大変な選手たちと チームメイトになりました イタリアでの開催で、すべてに好条件のように思えても 当り前のことなど一つとしてない・・・・・・ 実際には決勝に進むことすらできなかった厳しい闘いでした それで私は、最後の一瞬まで当り前なことなどまったくないと わかったのです そうして、あのW杯から4年後のW杯に向けて 次なる挑戦への動機を見いだしまた 当時3位まで行き、今回準々決勝に向かわしめた最大の要因は 自分の持てる資質への信頼であって 練習で苦闘することが、万全の状態で試合に臨むために必要である と知ることです いずれにせよ、最善を尽くせば大きな悔いは残しません 私達は自分の持てるものを イタリアでもアメリカでもフランスでもすべて出しきったのです」 Q.「信仰されている仏法との出会いと支えについて」 バッジョ 「サッカーのプロとして再起できないほどの ひどい怪我に遭った私の人生を仏法は大きく変えてくれました 権威ある医者のすべてからサッカー選手を 続けることはできないと言われた私は 自分の資質への信頼を取り戻させて自分の 怪我に勝つことができることを教えてくれる仏法に出会ったのです 私は信じましたそれが私の生命を変えました 妻も信仰を始めました 信仰してすでに12年が経っています その間、私を支えてくれた師匠と同志に心の底から感謝しています 仏法への信仰は実に大きな支えであり 信じ、闘い、自分の目標に向かって前進する ことを可能にしてくれたのです このときから毎日、同じ新たな希望と自信で 私は御本尊に向かっています。 なぜなら、サッカー人生のなかでは 毎日さまざまな新しい状況に出会うからです W杯でも国内や国際的選手権でも、信仰は私の支えです」 Q.「多くのファンへのメッセージを」 バッジョ 「私をこれまで応援してくれた人々、応援してくれている人々 これから応援してくれるであろう人々のすべてに たった一言「ありがとう ! 」と申し上げたいのです なぜならば、私を支えてくれた人々の励ましを常に感じてきた からです。 大切なもののために常に努力し 闘い、決して裏切らないことを私にさせてくれた 温かく大きな愛を感じてきました 本当に素晴らしくて、心から感謝に堪えません 皆さんの夢と皆さんの構想のために闘ってください 私は、こうして夢と目標をすべて実現したのですから 皆さんもそれを信じてください」 そして最後に「次ぎのW杯のときは35歳になっているため 次ぎの大会でお目にかかれるかどうかわかりませんが いまから限界を定めることはやめましょう 私たちには、限界はないのですから」 別のインタヴューで Q.「ボローニャでの1シーズンについて」 バッジョ 「忘れられない素晴らしいシーズンだった ボローニャに行って初めて知ったんだあるていどの 年をとって経験を重ねて初めて見えてくるものがあるんだってね」 |